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VOL 25 こんにゃくの発展に貢献した金蔵と久右衛門

安政時代(1855)頃、水戸藩でこんにゃくの発展に貢献した二人の人物が語られています。

一人は今の大子町の住人で、益子金蔵が臼の中の不要なこんにゃく粉を搗きながら外にまきあげる「あおり技」を考案したことです。

こんにゃく水車で臼を搗く杵の先に偶然、こもが突き刺さり、こもがバタバタ扇いだことで粉の不純物をまきあげる装置を作ります。

臼には比重が大きい純度の高いこんにゃくの主成分マンナンが残り、この工夫で当時、精粉五両だった値が七両に上がり、この功績で金蔵は藩から「黒付小柄小刀」が与えられたそうです。

もう一人は大阪の久右衛門という商人で、水戸藩の信頼を得て粉こんにゃくの西日本一帯の販売を一手に任され、年間の取引額は千両単位だったそうで、克明な買い付け記録が残されており、久右衛門のおかげで水戸藩の粉こんにゃくが全国に広がり、この二人がこんにゃく発展に貢献したと言われています。

VOL 24 札束だった“こんにゃくすだれ”

こんにゃくが機械生産されるまでは当然、手づくりで荒粉が作られていました。

掘り取ったこんにゃく芋は、6ミリほどの厚さにスライスされ1メートルほどの長さの篠竹に数センチ間隔で串刺しにされ、ずらっと輪切りのイモが風通しのいい軒先にぶら下げられていました。今でも見られる干柿のような風景で、こんにゃくの串刺しの篠竹を連ねていくと丁度すだれのようになり、これを“連”といい天日干しする場所を“連場”と呼んでこんにゃくを冬の乾燥した空気にさらし、それを荒粉にしたのです。

こんにゃくの産地、下仁田や南牧では冬の風物詩で農家の軒先や庭先につるされ、こんにゃくすだれだらけでした。この頃、こんにゃくは食用だけではなく工業用にも使われ、需要が多く価格が高騰したため農家では寝る間を惜しんで荒粉づくりに精を出し“こんにゃくすだれ”は“札束のなるすだれ”に見えたのだそうです。すごいですね。

VOL 23 こんにゃくの七変化

茨城県の袋田の滝で知られる大子町にある蒟蒻神社に祀られている中島藤右衛門が発明した「蒟蒻粉」によって、手のひらいっぱいの粉から鍋一杯分の蒟蒻ができることから「こんにゃくはお化け」といわれる“魔法の粉”となったのです。

子どものころに遊んだ“きもだめし”で、暗闇でこんにゃくに触って驚いた記憶がありますが、こんにゃくの七変化も楽しいですね。

江戸の「蒟蒻百珍」には珍しいこんにゃく料理が紹介されていますが「隠里(かくれざと)」という料理はどうでしょう。

「弐ッ切にて、小口より内をきりぬき、かやくをつめ、また小口へうどんこをぬり、さっと揚げ用ゆ。姿のかわらぬを専用とす」とあります。こんにゃくを二つに切り、中身をくりぬいてお好みの具を詰め、さっと揚げていただくおでんの“巾着”のような一品ですが、こんにゃくの型を変えずになかからいろいろな具が出てきたら楽しいでしょうね。

VOL 22 愛すべき「こんにゃく」の未来

江戸でもてはやされた“こんにゃく料理”も、あまり「美味しい」と褒められることも「まずい」と叱られることもありませんが、“なくてはならない”食べ物です。
「おでん屋」「すき焼き屋」には欠かせませんが、さりとて“こんにゃく”がなくては商売が成り立たないわけでもありません。一見たよりない“こんにゃく”も知らない子どもがいるわけでもなく、家庭料理にひょっこり顔を出す料理です。

こんにゃくの歴史をたどるとこんにゃく生産の浮き沈みは激しかったのですが、ダイエットやメタボ対策で新しいこんにゃく料理が誕生し、その価値が栄養学的にも評価され世界的な広がりをみせています。

あの“ぷるぷる”“ブルブル”が、おしゃれになってお菓子やパスタになり、現代の“健康食”として昔と変わらぬ愛すべき存在感が何とも言えない魅力です。

“こんにゃく”の更なる進化に期待です!

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