和食は室町時代に大きく展開を見せ江戸時代に急速な発展を遂げたといわれています。
天明2年(1782年)、 豆腐料理の100通りのレシピをまとめた「豆腐百珍」が発行され、次々と江戸人のグルメ本・料理百珍が発刊され、現代のクックパッドを思わせます。
豆腐は続編・餘緑が出版され「鯛百珍」や「玉子百珍」、「柚百珍」、「甘藷百珍」、「海鰻(はも)百珍」と発刊され、弘化3年(1846年)にはついに「蒟蒻百珍」が発刊されました。
著者は匿名の嗜蒻凍人なる人物で詳細は不明ですが、江戸日本橋通・山城屋佐兵衛と大阪心斎橋通・堺屋新兵衛を板元として発刊されています。江戸時代の人気の“こんにゃく料理”が綴られていますが、今でもわかる料理名は、こんにゃくの味噌がけ、田楽や煮物、指身、煮しめや氷こんにゃく、五色ごんにゃく、白和くらいで名前だけでは想像しがたい料理が続きます。ゆっくりと珍しい江戸のこんにゃく料理も紹介したいと思います。
ノーベル医学生理学賞を受賞された大村智先生は、土壌の細菌から抗寄生虫薬を開発し多くの人の命を助け、人柄と相まって日本中が感動しました。
こんにゃくの歴史のなかにも微生物の研究で著名な大槻虎男博士がおられます。昭和25年、昭和天皇に微生物の御進講をされ講義のあと雑談となり大槻先生がこんにゃくの話しに触れ「世間ではこんにゃくを不消化とか栄養がないとか申しますが・・・」というと、不意に陛下が「それはちがう、こんにゃくには栄養がある」といわれたという話が「こんにゃく新聞」に掲載されました。
大槻先生は「いろんなところでこんにゃくの話しをして来ましたが、私が説明する前にこんにゃくに栄養があることを知っておられたのは天皇陛下お一人でした」と話しています。昭和天皇は植物学、微菌学の学者でもあり高いご見識にも敬服します。
お二人が大村先生の受賞を知られたらお喜びになられたでしょうね。
文人達の「こんにゃく」評を拾ってみました。
「美味しんぼ」では、雁屋哲は「じつに官能的な感触 で、嫌なにおいもないし、第一味があるよ!・・・・ほっこりと甘い、豊かな味がした。この感触はどうだ!クニュクニュした歯ざわり、上あ ごに吸いつくような舌ざわり」となかなか前衛的な表現です。
小泉武夫は「吾輩はビールである」で、「コンニャクはつかみ所がない。何かが難しくて分からない学問がある哲学に似ていて・・・あのブヨブヨとした口当たりや感触には、さらに哲学性を感じる」と書き、こんにゃくを哲学になぞらえる表現に思わず喝采をしてしまいます。
林望の「音の晩餐」では、「普茶料理を食べに行ったところ “山フグの御造りでございます”といって、透明にしてコリコリと身の締 まったコンニャクが出た」とありますが、こんにゃくのおいしさや感覚表現もさまざまで、こんにゃくは“愛されキャラ”なんだと思えてなりません。
「蒟蒻栽培調理法」(明治23年刊)に、食用以外の用途について面白い記述があります。
明治の半ばの頃、こんにゃくが雨傘や雨合羽、空気枕や氷袋、壁紙にも使われています。大正時代になると、用途も広がり天幕や食器カバー、紙製チョッキや雨除けシート、セルロイド代用品やこんにゃくゴム、オブラート、織物糊などにも使われています。
こんにゃくが人造ゴムとして使われていたことに驚きますが、こんにゃく粉を原料として簡単な平版印刷の印刷版として「こんにゃく版」と称して使われていたことにも驚きです。
また、凍みこんにゃくを利用して夏用帽子として実用新案も取られているそうです。古くは戦国時代には和紙にこんにゃく糊を塗って「紙鍋」が作られ、七輪にかけて豆腐を煮る人物の姿が絵に描かれているそうですから、こんにゃくは“食べて良し、材料でも良し”で万能だったのですね。
出典資料:「こんにゃくの中の日本史」武内孝夫著(講 談社刊)
戦後70年、いろいろな思いで戦争が語られていますが、今や“戦争を知らない子どもたち”が60%を超える時代となっています。
こんにゃくが、兵器の材料に使われていたことがあることをご存知でしょうか。
太平洋戦争末期に日本がアメリカ本土に向けて、7千キロ以上もの距離を横断させる風船に爆弾をのせて飛ばしたことがあるのです。記録によれば9300発を放ってアメリカ大陸に到着したのは1000発程だったそうですが、その成果はわかっていません。
この風船爆弾は、和紙とこんにゃく糊でできていたそうですから驚きです。風船の球皮はゴム引きや布や合成樹脂などが研究されましたが、最も優れた結果を出したのが和紙とこんにゃく糊で作られた風船だったそうです。
和紙というより、こんにゃくでぬりかためたといった方が正解で、当時は高度技術の粋だったそうです。アメリカ人もきっと驚いたでしょうね。
日本の「寿し」「さしみ」に続いて「ラーメン」が世界の食事を席捲していますが、醤油や味噌、だしの和食文化が急速に広がるなか、今フランスではこんにゃくのパスタがブームで、パリジェンヌにもてもてです。
かぼちゃやほうれん草、にんじんのパウダーをねりこんだ色鮮やかなパスタが食欲をさそい、野菜の栄養分も摂れるのも人気の故です。
普通のパスタが450カロリーなのに対して、こんにゃくのパスタは170カロリーと美を競うパリジェンヌにとって、この低カロリーも魅力となっています。
和食材の輸出は2014年、6110億円ほどでしたが2020年には1兆円を超えると予測されています。1977年、アメリカが合衆国の食事の目標をとし“和食”を推奨した「マクガバン・レポート」に続き、こんにゃくが肥満に悩む世界の女性を虜にする可能性を秘めた食材として注目されています。
作家・司馬遼太郎さんが「街道をゆく」で、こんにゃくについて書かれています。
「コンニャクのよさも、歯ごたえであろう。岩おかきのバリバリでもなく、炒り豆のカリカリでもなく、カズノコのプチプチでもなく
─また容易に噛みきることができるにせよ
─歯と歯ぐきをこすって磨きあげてくれるような独特の歯ごたえがあるといえる」
司馬さんは、こんにゃくの味よりも歯ごたえに情を込めて表現されていますが、すき焼きでもおでんや煮物でも、あのぷるぷる感がそれぞれの料理をひきたてる気がします。
司馬さんの文章で驚くのは、偉大な作家がバリバリ、カリカリ、プチプチという日本独特の表現である“オノマトペ”(擬音語)を使って、こんにゃくの特色と良さを表現されていることに、こんにゃくに好意を持っておられるのではないかと思ってしまい ます。
袋田の滝で知られる茨城県久慈郡大子町に「こんにゃく神社」があり、江戸時代後期の農民で中島藤右衛門という実在した人が「こんにゃくの神様」として祀られています。
こんにゃくのルーツはインドシナ原産らしいのですが、縄文時代に伝来したという説や仏教伝来と一緒に中国から来たと諸説あります。
文献では平安中期に書かれた「倭名類聚鈔」に「こんにゃく」の名が見られます。中国ではこんにゃくは「魔芋豆腐」と呼ばれ古くから食べられていたようですが、日本でも生のこんにゃく芋には毒があり猪ですら食べないことから毒芋ともいわれていました。このやっかいなこんにゃく芋を乾燥させて粉末にする製法を発明したのが藤右衛門さんだったのです。
この功績から晩年、水戸藩から「一代苗守麻上下着用」を許され、中島姓を名乗り没後「こんにゃくの神様」とあがめられるようになったのです。その製法は今に引き継がれているのです。
考古学者で食にも造詣が深い樋口清之さんの書「梅干と日本刀」の中に「こんにゃくは、こんにゃくマンナンという薬物を含んでいて、このマンナンはコレステロール溶解剤である。今日、コレステロール溶解剤して売られているのは、合成マンナンである。
合成されたものより、自然のものを食品として摂取するほうが効果的である。こんにゃくを小さいときから食べていることが、高血圧や血管炸裂をどれほど防いでいるか、計り知れない」と書き、さらに「牛蒡(ごぼう)と蒟蒻(こんにゃく)を食べている限り、日本人は近代社会の中で最後まで生き残れるだろう」とまで書いておられます。
21世紀が植物栄養素の時代であることを予知しておられるような洞察力には脱帽です。作家の水上勉さんも熱烈なこんにゃくファンだそうですから、またお話しましょう。
江戸娘たちの好きなものに、「芝居 こんにゃく いも 南瓜(かぼちゃ)」という言葉がありますが、こんにゃくは江戸時代からダイエットの一つだったのでしょうか。
こんにゃくは「おなかの砂払い」といわれ、江戸っ子は定期的に食べる習慣があったようです。体の中に溜めておいてはいけないものを出すことを「砂払い」といい、不純物を体外に出すことを知っていたのでしょう。こんにゃくの水溶性グルコマンナンという食物繊維が腸内で水分を吸収して膨張し、腸を刺激して有害物質を排出させることを江戸の人は、体験的に知っていたのです。
栄養学の知識がなくても、300年も前に現代人と同じ「デトックス」を実践していたと思うと、江戸の食生活に学ぶことも多いですね。1977年、米国が「合衆国の食事目標」のマクガバン・レポートで「日本の和食こそが、人類の理想食である」と説いたことがよくわかりますね。